死んだらどうなる? 岸本英夫教授の場合(6)

前回の続きです。

「死んだらどうなる」それが最大の問題で、

「直接的なはげしい死の脅威の攻勢に対して、抵抗するための力にならうようなものがありはしないかということである。それに役立たないような考え方や観念の組立ては、すべて無用の長物」

と論じています。
「おそろしいのは、死後の世界の有無がわからないままに無理にあると言い聞かせて自分を慰めようとし、あるかないかで煩悶することだと気づき、あてにならぬことはあてにはしまい」と決めた。そして、〝手負いのイノシシ〟のごとく働き、死の不安から逃れようとしたのである。
 その後も左顎部にがんは頻発し、手術を重ねながら、昭和35年には、東大図書館長の職務を引き受けている。朝食は机で仕事をしながら済ませ、昼食も夕食も、ほとんど家で摂らなかった。仕事に自己を追い込み、死から目を背けていたが、
「手術をしましょう」
と言われるたびに、全身から血の気が引く。死の暗闇は、考えまいとすればするほど、大きな口を開いて迫ってきた。

 がむしゃらに働くだけではだめだ、と悩んでいた時、がんに冒された某大学創立者の告別の辞に触れ、「死は別れの時」という考え方に共鳴する。人間は、心の準備をして、小さな別れに堪える。死も準備しておけばよいと考え、心を落ち着かせようとした。
 しかし、死には、〝行く手が分からない別れ〟という深刻さがある。

Posted under 死んだらどうなる?現実的編 by ろーどらんなー on 月曜日 12 7月 2010 at 4:21 PM

死んだらどうなる? 岸本英夫教授の場合(5)

 

がんと闘って10年、東大・宗教学教授の岸本英夫氏は、闘病記 (『死を見つめる心』)を書き残しています。

死を目の前にしたとき「死んだらどうなるか」ひとつが問題になるのです。
「生命飢餓状態におかれた人間が、ワナワナしそうな膝がしらを抑えて、
 一生懸命に頑張りながら、観念的な生死観に求めるものは何であるか。
 何か、この直接的なはげしい死の脅威の攻勢に対して、
 抵抗するための力にならうようなものがありはしないかということである。
 それに役立たないような考え方や観念の組立ては、すべて無用の長物である」 

            (『死を見つめる心』)
親鸞会の知人が「死んだらどうなるか分からない心を無明の闇といい、
これが、苦しみ悩みの根っこだ」と言ったのを忘れることが出来ません。 

Posted under 死んだらどうなる?現実的編 by ろーどらんなー on 火曜日 8 6月 2010 at 2:43 PM

死んだらどうなる?岸本英夫教授の場合 3

岸本英夫教授の本を通して「死んだらどうなる?」という問題について書いています。

岸本英夫、はもと東京大学の教授でしかも宗教学を専門とした興味ある学者でした。
彼は彼自身の臨終の最後まで、死という問題を直視し続け、現実の死という問題に真向うから取り組んだ勇気ある人物でした。

その著「死を見つめる心」にはこう書かれています。

「私は、そのころ、始終、戦時中の空襲のことを思い出していた。敵機が近づくと、あの空襲警報のぶきみなサイレンが鳴った。それを聞くと、心がギュッと緊迫した。
 癌の場合、ある意味では、空襲警報より、もっと始末が悪かった。空襲警報の場合は、警報解除ということがあった。しかし、今度の癌とのたたかいにあっては、それがない。朝から晩まで、心は、緊張のしつづけである。私の内心は、絶え間ない血みどろのたたかいの連続であった」 

肉体よりも、死への恐怖という心の苦しみの方が
はるかに大きいと書かれてあります。
まさに「死んだらどうなる?」の恐怖。

Posted under 死んだらどうなる?現実的編 by ろーどらんなー on 火曜日 27 4月 2010 at 5:11 PM

死んだらどうなる?岸本英夫教授の場合(2)

岸本英夫教授の本を通して「死んだらどうなる?」という問題について
書いています。

岸本英夫、この人はもと東京大学の教授でしかも宗教学を専門とした興味ある学者でした。
彼は彼自身の臨終の最後まで、死という問題を直視し続け、現実の死という問題に真向うから取り組んだ勇気ある人物でした。

癌の中でも最も恐ろしいといわれる悪性黒色腫という皮膚癌があります。
その転移性の早いことでは致命的な癌です。

岸本教授はかなり以前からしこっていた彼の左アゴの異様な固りを切開したのですが
そこにあの黒色腫の悪性な癌細胞が検出されたのです。

あと半年しか命の保証ができないと診断された岸本教授のショックは、それは大変な
ものでした。

岸本教授はこう書いています。

「私の内心は、絶えず血みどろの闘いだった。
 昼はまだ良い。
 夜が問題だった、夜、一人自分の部屋に入ると、激しい緊迫感が襲ってくる。
 癌の宣告を受けた私は、もはや絶望という意識で心が一杯になってしまった。
 そしてその時、私は生れて初めて、生きていたいという生命欲が猛然と頭を
 もたげてきたことを知った。
 腹の底からわき起る凄じい生命欲は、死にたくないという強烈な欲求と、
 死に対する物凄い恐怖となって現われてきた。
 生命が直接の危機に陥ると、心はどれ程たぎり立ち、猛り狂うものであるか、
 そして全身が手足の細胞の末々に至るまで必死で死に抵抗するものであるか、
 私は身をもって知らされた。」

Posted under 死んだらどうなる?現実的編 by ろーどらんなー on 土曜日 27 3月 2010 at 11:34 AM

死んだらどうなる?岸本英夫教授の場合(1)

「死んだらどうなる?」

これが大問題と思ったのは、一冊の手記を読んだことが大きい。

その手記とは岸本英夫教授(1903~1964)の『死を見つめる心』という本だ。

東大教授で文学博士の岸本教授は10年のガン闘病中に自らの心情を
その著『死を見つめる心』に吐露しています。
この本は、逝去の年、毎日出版文化賞を受賞しています。 

岸本教授がガンの宣告を受けたのは昭和二十九年、スタンフォード大学の客員教授
として、米国滞在中でした。

あごの下にできたしこりを、念のために摘出したあと、病院を訪れた時である。
体調を尋ねられた岸本氏は、

「パーフェクト(完璧)で、どこも何ともない」

と答えた。すると、医師は、

「これ(摘出したしこり)が、単純なリンパ腺の腫脹だと、問題はなかったのですが、
 増殖性のものだったので……」

と言う。岸本氏はハッとした。

「もしや、ガンでも……」

不安は的中し、余命半年を告げられたのである。
働き盛りの五十一歳。
夫人が、「結婚してから、一度も病気らしい病気もせず、丈夫な体と強い精神の
持ち主でした」と述懐する岸本氏にとって、まさに寝耳に水だった。

少し前までの「冗談でも言えそうなゆったりした」気分がうそのように、
心は異様に緊張し、「全く別人のような気持ち」になっていたという。

 胸中を闘病記に書いている。

「死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は、
 突然に来たとしか感じないのである。
 生きることに安心しきっている心には、死に対する用意が、なにもできていない
 からである。(略)
 死は、来るべからざる時でも、やってくる。来るべからざる場所にも、平気で
 やってくる。
 ちょうど、きれいにそうじをした座敷に、土足のままで、ズカズカと乗り込んで
 くる無法者のようなものである。それでは、あまりムチャである。
 しばらく待てといっても、決して、待とうとはしない。人間の力では、どう止める
 ことも、動かすこともできない怪物である」 
             (『死を見つめる心』)

しばらく、この本を通して「死んだらどうなる」がいかに大きな問題か
考えていきたいと思います。

Posted under 死んだらどうなる?現実的編 by ろーどらんなー on 日曜日 28 2月 2010 at 4:35 PM

死んだら周囲はどうなるの?

死んだらどうなるかについて、たまにはシビアに答えてみましょう( ̄ー ̄)

死んだらお通夜、次いでお葬式が挙げられますね。家族たちは身内の訃報を関係者に知らせるために東奔西走して、忙しい中お通夜とお葬式の準備をします。また、当然お金もかかります。全額負担する必要はないとはいえ、タダのハズがありません。そうして家族や親戚たちは仕事や学校を休んで、遠方に住んでいる人なら慌てて準備して、葬式へとやって来るのです。

病院に入っていたなら、お医者さんたちは真っ先に家族に報告しますね。家族が死に目を見届けることができたなら、病室から引き取らなくてはなりません。

事故に遭ったとすれば、現場へは救急車だけでなくパトカーもやって来ます。それが公共の交通機関だとダイヤが大いに乱れますね。自家用車での事故だと自損でもまず交通規制が敷かれます。現場検証をして、破損した車体はレッカー車で移動。加害者がいる場合、その人や家族には一生の苦しみとして残るでしょう。また、裁判沙汰になる可能性も。

もっとひどい場合が殺人の場合。犯人が捕まっていようといまいと、警察内部では上を下への大騒ぎ。各種メディアにも取り上げられてしまうでしょうね。

また、自殺となると原因の追及は避けられません。原因がいじめ問題なら、保護者会から学校へといじめ対策を追及されるのは必須。いじめをしていていもいなくても、生徒にも騒ぎが飛び火します。学校ばかりか、職場でのいじめも考えられますしね。社会に出ると、自殺の原因は家族関係やお金の問題などもあり得るでしょう。

……どうなるか考えてみると、死んだらたくさんの人に迷惑がかかることは間違いないみたいデス。迷惑、なんて言っちゃったらやりきれないですケド(業者さんによってはそれが仕事だしね)

なるべくなら、騒ぎとして広まらないような、穏やかな死を迎えられたらいいですねぇ。

Posted under 死んだらどうなる?周囲の人々編, 死んだらどうなる?現実的編 by ろーどらんなー on 土曜日 15 8月 2009 at 4:39 PM

死んだら身体はどうなるの?

「人は死んだらどうなるのだろう?」

死んだらどうなるなんてたいそうな問題のようにも聞こえるけど、ベツに深刻に考え込みたいわけじゃないです。こんな考えもあるよ、ってコトを紹介していきたいだけなんで、気軽な気持ちで読んでくださいネ。

科学的観点から言いマスと、どうなるって、人間は死んだら身体の機能が全て停止しますね。血液が循環しなくなり、栄養も全身に行き渡らなくなるので、肉体は腐敗していきます。んで火葬にしろ土葬にしろ、土に返された身体はやがて大地の肥やしとなるワケです。それを養分として植物が育ち、生命が育まれ、また朽ちてゆく。こんな大自然の循環の中に人間も組み込まれているんですねぇ。

これは人間に限らず、植物やプランクトンを含む全ての生命が、死んだらこうなるんですね。地球が誕生してから今現在に至るまでの46億年間、ずぅ~~~……っと続いていることなんですよ(たぶん)

なんだか、死んだら肉体は消滅してしまって何も残らないように感じられますケド、土に返されるってことは必ずしも無になるとは言えないような気がしマス。だって、姿形は生前と完全に変わってしまうけども、土の一部となるわけですよネ?その土はまた他の土と混ざり、時には風に飛ばされ、時には水に溶けて流され……例え塵芥と化そうとも、世界のどこかに自分の一部はあるワケですよ。

そう考えると、大昔に大繁殖した恐竜たちも、偉大な功績をこの世に残した偉人たちも、この地球上のどこかに一部が残っているんですよ……

……と、思いを馳せるまでもなく、恐竜なら化石があるし、偉人なら間違いなく墓とかに遺体が収められているハズなので、自分たちのご先祖様に言い換えましょうか。

うん。写真でさえ姿を見たことのないご先祖様の一部が、今も世界のどこかにいるんですね(とってつけたような発想なので感慨が薄れてしまった……^_^;)

Posted under 死んだらどうなる?現実的編, 死んだらどうなる?肉体編 by ろーどらんなー on 日曜日 26 4月 2009 at 1:34 PM